2009年1月2日金曜日

環境問題と末期がん(もしくは安楽死)

医師

「病気はかなり進行していて、いかなる方法を使ったとしても感知する見込みはほとんど無い。一番長くてもあと1年。今すぐ入院して、長時間非常な苦痛を伴う治療をすれば、もしかしたら数ヶ月~数年死期が先になるかもしれない。ただし、この治療法はいまだ確立したものではないので全く効かない場合もあるし、健康保険の範囲外なので費用は極めて高くなる。根治につながる方法が発見される可能性は僅少ながら無いわけではない。しかし、あまり期待しないように」

意見A

「わずか数ヶ月死を先送りにするのに、残された全ての時間と金を費やして大きな苦痛まで受けるとは愚かなことだ。どの道一年と少しの命なら、やりたいことを全てやって充実した時間をすごしたい。金も時間も、もっと有意義な使い方がいくらでもあるはずだ。いよいよダメというときになっても、苦しい延命治療は無しにして安らかな最期にしたいものだ」

意見B

「死んでしまったら全て終りではないか。全時間を拘束され莫大な金がかかるとしても、少しでも長く生きられる可能性がある選択肢を選ぶのが当然だろう。苦しいのに耐えてがんばっていれば、もしかしたら根治の方法ができるかもしれない。」

 環境問題、特に地球温暖化にどう対処するかをめぐる対立って、上記のたとえに近いのではないだろうかとふと思いついた。

 保護推進派が苦痛を伴う策ばかりを推しているわけではないが、「将来のために今の便利さを我慢する」というのが基本の主張だろう。また、経済発展を重視する人々が人類の滅亡を肯定してるわけではないにしても、そう遠く外れたたとえにはなっていないはずだ。

 自分はどちらかといえば保護派に近いが、こういうたとえをしてみるとAのほうがまともなような気がしてきた。